新国立競技場の完成に思う 2019年12月
朝夕の冷え込みに比べ、昼間の異様な温かさに温暖化の不気味な感じを抱いておりますが、お元気にお過ごしでしょうか。
さて2020年に開催されるオリンピックに向けて新国立競技場が完成しお披露目のイベントが催されました。68,000人を収容できる競技場は、3年の歳月をかけ、のべ150万人の作業員の方々で建設がされました。思ってた以上に早く完成したという思いがいたしますが、主たるデザイン、設計者のもと綿密な図面に基づき建設がなされ、暑さ対策やオリンピック終了後の活用にも念頭に抱きつつ本当に素晴らしい競技場が完成したのだと思います。完成した競技場を画像で見つつ、人間の素晴らしい英知に驚嘆しておりますと同時に、私たちの身の回りにある自然の木々や果物、動物すべての存在と比類なき人間、その素晴らしき創造物は人知をはるかに越えた全能の御方(神)創造と認めざるを得ないのです。その天羅万象は決して偶然や突然変異などで存在することなど到底考えられない被造物であり、尊い命を持つ人間です。
聖書のみことばをご紹介したいと思います。
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第6日。こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。」(創世記 1章 31節、2章 1節)
「すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音書 1章 3節)
今や人間は、超高層ビル、宇宙船、スーパーコンピューターや多種多様なAIの数々の機器を創造しており、近々火星に降り立つかも知れません。その人間は偶然に存在しているのではなく、神の創造の賜物以外の何物でもないのです。
スマホに語り掛ける姿に思う 2019年11月
気温の高低の差が激しいこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
最近スマホに向かって声をかけている方々を見受けることが多くなりました。集会の8歳の子も「Siri、今何時ですか?」と問いかけると「はい、〇時〇〇分です。」と正確な時間を答えるのです。会社でも「どこどこに電話!」というと自動的に電話が掛かっているのです。AIの発達によって老人と機械や人形との会話でコミュケーションが成立して、日々の生活の楽しさなりがより広がっている現状に目を見張るものがあります。いつもスマホやパソコンを覗いている若者や私たちの互いの心の触れ合いが気になっております。そして、本来人間が最も大切にしなければならない、いのちの創造主である神との会話が失われるばかりのように思います。
聖書のみことばを紹介したいと思います。
「あなたがたは今まで、何もわたし(イエス)の名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネの福音書 16章 24節)
聖書には、私たちが声掛けをしたことがない方がいると教えているのです。その方が創造主なる神であり、救い主であるイエス・キリストなのです。「求めなさい。」と言ってくださるのです。「困ったときの神頼み!」とはよく言われていることですが、真の神は私たちの声を直接聞いて助け、守り、導きたいと願っておられる御方です。私たちのいのちの創造主である神とイエス・キリストの愛の存在を知って下さい。
長期断水の不便さに思う 2019年10月
随分気温が下がってきたこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
便利で快適な世の中になりましたが、最近の災害等でよく耳にするのが、停電と水不足に悩まされる日常生活の不便への困惑の叫びです。オール電化という言葉も最近の生活水準の向上に一役買っている表現だと思います。しかし、一旦何かの障害で停電をしてしまうと、日常生活がズタズタになってしまい、何も手に付かない、動けない現象が生きる楽しみや喜びを台無しにしてしまうのです。停電の報道を受け、我が家にある懐中電灯3個の状況を確認したところ、何と3個とも電気がつきませんでした。原因は電池切れと接触不良でした。電池を新しくしてもちょっと錆びているだけで点灯しないのです。何度が接触部分をこすったり、磨いたりすることによって全て点くようになり安堵しました。イエスを信じた私たちは闇に覆われることはなく、いつも光に照らされ、みことばの灯を持って歩むことができるのです。
聖書のみことばを紹介したいと思います。
「イエスは彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネの福音書 8章 12節)
「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネの福音書 12章 46節)
この世界は、悪しきサタンの支配下にあって、何よりも富が優先してしまい、明るく見えても実は愛や安らぎなどを暗闇が覆っているのです。だから主は、イエスを信じる私たちを光のこどもであり、世界の光であると宣言しておられるのです。小さな光であっても照らすことができれば幸いです。
台風15号の爪痕に思う 2019年 9月
夏だか秋なのか、暑いのか涼しくなったのか、よく分からない今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
最近の話題はこの種の自然災害を多く取り上げていると思いますが、それほど災害が増えているのが現実です。今回の台風15号が千葉県房総半島を直撃し、その傷跡は底知れずいまだに停電などライフラインの問題が懸念されております。40年間養鶏場の経営者が廃業しなければなりませんと肩を落としておられた姿、120棟のハウスで栽培していた方が自然の力には無力ですねと言っておられた様子、停電が長期におよび電気に頼っている現実の脆さ等々、一夜の強風で人生が、平穏な生活が無惨に切り裂かれてしまう姿に何度も何度も唖然とさせられるばかりです。人生とは、生きるとは何でしょうか。
聖書のみことばを紹介したいと思いますが、この聖書のことばは、より多く引用させて頂いている個所だと思います。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩も上に建てられていたからです。」
(マタイの福音書 7章 24,25節)
最近自然災害で人生が大きく狂ってしまう姿を見なければならないケースが非常に増えております。しかし自然災害だけではなく、自身の病気や愛する方の病気や死によって、私たちの生き方や希望は大きく変化し、崩れてしまうものです。しかし、イエスはどのような状況の中にあっても、揺るがない、崩れることのない生き方、人生があると教えているのです。それがイエスの愛のことばの上に築き上げられる信仰による人生です。
日韓の不穏な関係に思う 2019年 8月
残暑お見舞いの季節ですが、最近多少気温が下がったように感じるこのごろ、皆様いかがお過ごしでしょうか。
「慰安婦」や「徴用工」の賠償の問題が再燃され、すでに話し合いをを終え、賠償も済んでいるという日本政府と個人的には未解決だという韓国政府の主張で溝が埋まらず、特定商品の輸出入の優遇処置の撤廃、韓国では日本製品の不買運動などが懸念されております。それに加えさらにエスカレートしたのが、軍事情報協定の破棄というところまでこじれてしまっております。クリスチャンとして韓国の友人や仲間が多くいますが、全く問題なく接することができております。今後日韓関係はどのように改善されるのでしょうか。
聖書のみことばを紹介したいと思います。
「自分の敵を愛し、迫害する者ために祈りなさい。」(マタイの福音書 5章 44節)
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、・・・」(Ⅱテモテの手紙 3章 1~6節)
今世界は日韓だけでなく、色々な場面で対立が激化しており、互いに認め合う、赦し合う、愛し合うといった麗しさがなくなりつつあるように思われます。自国の利益を優先することが多くて他のものに対する思いやりとか、愛し合うと言った尊い価値観が薄れてしまっているように思われます。個人的にも私たちは自分の敵を愛することが出来るでしょうか。しかし、それはイエスが私たちに望んでおられる、愛の生き方なのです。
7月中旬の赤とんぼに思う 2019年 7月
梅雨はいつ明けるのかと気温が気になるこの頃ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて今月の半ばに庭の様子を見ようと窓を明けた時、多くの赤とんぼが飛んでいるのに驚いて「赤とんぼだよ!」と叫んでしまいました。例年赤とんぼを目にするのは、8月のお盆の頃ではなかったしょうか。夕焼け空に赤とんぼが舞っている風景は、子どもの頃に遊んでいた思い出の一ページでした。7月の中旬草々に赤とんぼが出現するのは、やはり気候の変化かなと思いました。そのような中、韓国からクリスチャンの友が来られ、そのおひとりが唱歌の「赤とんぼ」が好きで一緒に歌いました。「赤とんぼ」の作詞をした三木露風は聖書を信じておられたようで、最後の歌詞で「赤とんぼが竿の先にとまっている」という情景は、十字架にある安らぎを指していると言われております。
聖書のみことばを紹介したいと思います。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書 14章 27節)
イエスが十字架で処刑された時、イエスの弟子たちは様々な怖れを感じて閉じこもっていましたが、イエスは「平安があなたがたにあるように」と言われ、彼らは喜びに満たされました。私たちもいろんな恐れを抱きつつ生きていると思います、イエスは私たちにこの世では得られない平安を与えてくれるのです。