主人公不在のXmasに思う 2020年12月
暖房が恋しいこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
クリスマスの時期になりますとイルミネーションやツリーが飾られて美しく,にぎやかになります。クリスマスソングが流れ、色んなイベントで楽しくもなります。そして、サンタさんが登場して大きなプレゼントの袋に子供たちは胸をワクワクさせるのです。しかし、最も大切なクリスマスの主人公イエス・キリストの姿やキリストを祝うという雰囲気が全くといっていいほど目につかないのです。それは教会のイベントでしょ!と言わんばかりの状況なのです。クリスマスはキリストの誕生を祝うのが主なる事であるのに教会以外ではほとんど見受けられないのです。イエス・キリストの誕生こそが神の愛と恵みのプレゼンなのです。その愛を知った4世紀頃の司教さんが貧しい家庭の子を助けるため煙突か窓からコインを投げ込み、そのコインが靴下に入ったという言い伝えからサンタさんへと発展したといわれております。
原点に返って聖書を紹介したいと思います。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書 2章 11節)
主イエスの誕生は、創造主なる神の私たちに対する尊い愛のプレゼントなのです。それは、私たちが天国に行くことが出きる唯一の扉を開いてくださった方であり、私たちに代わって神の前に天国に行くことのできる代価を払って下さった方なのです。
それが、キリストの罪のない命が私たちの罪の身代わりとして十字架で処刑された証なのです。これ以上高価なプレゼントはないのです。
よく忘れることに思う 2020年11月
気温の変化が激しいこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
以前からお伝えしていることですが、私は物忘れがチョット多いほうのように思います。若いころから注文していただいている商品を忘れて、お得意様から𠮟られたことが何度もありました。その欠点を長男が受け継いでいるようで、鍵や財布をよく忘れますし、最近は博多駅まで自転車を乗って行ってたのに、乗って帰ってくるのを忘れてしまい、皆からあきれられていました。皆様も時々忘れることがあるかも知れませんが、忘れるという字は「心を亡くす」と書くのです。少しオーバーな思いがしておりましたが、ある時気が付いたのです。それは、私たちが『自分を愛するすることを忘れたり』『私たちの創造主なる神を忘れてしまう』ことは致命的なことであるということです。しかし、私たちを愛してくださっている神は、決して私たちを忘れない御方なのです。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまいないだろうか。たとい女たちが忘れても、このわたし(神)はあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ書 49章 15,16節)
私たちは、自分が愛する家族や友、恋人のことを決して忘れることがないと思います。ましてや母親が自分の子を忘れることなく愛することは最も美しいものである思いますが、その母親があなたを忘れるようなことがあっても、創造主なる神はあなたを決して忘れないと宣言しておられるのです。感謝ですね。
九州新幹線に乗って−思う 2020年10月
Go Toキャンペーンに少々賑やかさを感じるこの頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
最近、私は初めて九州新幹線に乗って鹿児島まで行きました。本当に便利になってびっくりしました。1時間15分程度で着くのです。それだけではなくチケットもネットで購入することができ、当日駅の自販機にカードを差し込むだけで、往復の搭乗券を即座に手にすることができるのです。色んな交通機関に乗る時も、また映画館やディズニーランドなどの行楽施設に入場するときもチケットが必要です。昔の子供の賛美歌に「天国行き汽車に乗ろう、切符はいらない、主の救いがあるだけでいい。」という歌詞があります。それは私たちがお金を出してチケットを買うのではなく、救い主イエスが信仰の愛というチケットを準備して配って下さるということなのです。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、命なのです。わたし(イエス・キリスト)イエス・キリスト)を通してでなければだれ一人父(創造主なる神)のもとに来ることができません。」(ヨハネの福音書 14章 6節)
天国という素晴らしいところがありますが、そこに行く乗り物に乗るためには、やはりチケットがいるのです。それはお金では買えない高価なものです。そしてそれは他の人から譲ってもらうことができないあなたの名前が刻まれている特別なチケットなのです。それはイエス・キリストの愛のことばを聞いて、信じるという相互の会話の中ではじめて手にすることができる特殊なチケットなのです
。あなたの指定席が準備されています。
生活環境の変化に思う 2020年 9月
朝夕の気温の変化に秋を感じておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
コロナの感染は、色んな意味で私たちの生活を変化させてしまいました。その流れは日常生活の全ての分野で影響が出ており、この信仰雑話でもコロナという言葉が出ない時はないのかと思います。職場のあり方、学校で、病院で、行楽やイベントなど、また楽しい食事の場面でも面白くない変化が要求されているのです。家族でさえ満足にお見舞いができない現状を寂しく感じます。歴史とともにコミュニケーションの姿、言葉の伝達手段は大きく変化してきたと思いますが、親子の愛、男女の愛、友という愛の姿には変化がないと思います。そして、創造主なる神の愛は、天地創造の時から今に至るまでいつの時代でも不変なのです。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」(イザヤ書 54章 10節)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネの手紙 4章 10節)
私たちの生活環境、コミュニケーションのあり方などに色んな変化が生じようとも、親が子供を愛する愛の尊さ、男女の愛の素晴らしさなどには、変化はないと思います。愛の言葉、愛の人を動かす力は変わらないと思います。そして創造主なる神の愛は不変であり、それはキリストの十字架で証明されています。
「愛は地球を救う」に思う 2020年 8月
猛暑の日々が続きますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
今年の夏休みやお盆の時期は、例年になく人の動きが少なく交通渋滞いという混雑に会うことがありませんでした。それほどコロナの問題は社会に大きく影響を与えているのだと痛感しました。テレビの番組やイベントでは色んな工夫がされているようで、連続番組の撮影が中止されていたりと関係者・スタッフは大変だと感じております。「愛は地球を救う」という番組も工夫の中24時間流されたようで、多くの感動を与えたことだと思います。私は「愛は地球を救う」という言葉が好きですが、広い意味でこの言葉が全世界を覆ってくれることを願うばかりです。「救う」ということは、聖書の中心主題でもあり、私たち一人一人を救うために創造主なる神が準備・完成して下さった素晴らしい永遠の天国への救いの道なのです。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ 2章 4節)
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、-事実、いま私たちは神の子どもです。-御父(天の神)はどんなに素晴らしい愛を与えて下さったことでしょう。」
(Ⅰヨハネの手紙 3章 1節)
聖書によると私たちは、罪を持っているがゆえに永遠の滅びへの裁きを受けなければならないと記されております。私たちを愛しておられる神は、イエスを身代わりに十字架で裁かれることにより、救いの道を完成してくださいました。
聖火の「希望の炎」に思う 2020年 7月
梅雨明けがのびた今年の夏のはじまりですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
博多の夏祭り山笠も中止になり、花火大会もできず、各地も同様寂しい夏になりそうです。GO
TOトラベルキャンペーンが開始されましたが、都民は参加できず、コロナの感染者も増加傾向にあり、今一つ盛り上がっていないのが現状のようです。またコロナの影響で一年延期になったスポーツの祭典オリンピックの来年を見据えたイベントが開かれ、白血病で選手生命が危ぶまれ最近練習に復帰した水泳の池江選手が聖火のランタン「希望の炎」掲げて来年の抱負を語り、感動を与えくれました。特に今は、コロナの感染に対する不安が日常生活を委縮させてしまい、喜びや感動に影を落としてしまっているように思います。そのような中、「希望」を与えてくれたことに感謝したいと思いますし、私たちも希望をもって日々生きていけると幸いですね。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で、一番優れているものは、愛です。」(Ⅰコリント 13章 13節)
私たちは、明日に向かって生き、歩んでいます。何か目標がありますでしょうか。辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、面白くないことなどがあっても、その先に小さくても希望があるなら乗り越えて行けると思います。イエス・キリストが私たち一人一人を愛してくださっている中に、信仰をもって、希望とともに愛をもって近づく時、光輝く人生があります。
バッタの異常繁殖に思う 2020年 6月
真夏日という気温とマスクに悩まされる季節になりましたが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
コロナウィルスの感染がやや落ち着きそうですが、コロナの感染と同時に発生した出来事がバッタの異常繁殖でした。その状況は収まるどころか、アフリカを中心に三重苦が次なる悪循環を招く危険性があると指摘されているのです。バッタの被害、季節性の洪水と激しい雨、そして新型コロナウィルスによる制約とういう三重の脅威に苦しめられているのです。平均的なバッタの群れでは、1日で2,500人分の食糧を食べ尽くすと言われており、異常繁殖により数週間から数ヶ月後に3,000万~3,300万人が深刻な食糧不足に陥る可能性があると言われております。
最近のコロナウィルスの問題やバッタの異常繁殖の問題などは私たちの地球の未来に何を問いかけているのでしょうか?聖書には終末、終わりの日という記述がありますが、そのことばの重みが増しているこの頃ではないでしょうか。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「イエスは彼らに言われた。『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。』」(ルカの福音書 21章 10,11節)
先進国の有識者の方々は、宇宙に目を向けており、アメリカもスペースシャトルに代わる宇宙挑戦が一般企業のもとはじまりました。地球以外で人間が生活できる星を探そうとしているのです。しかし、最も大切な創造主なる神に目を向けることなくしては真の解決はないのだと思います。今こそ私たち一人一人が神の愛の声に耳を傾ける時ではないでしょうか。
緊急事態宣言の解除に思う 2020年 5月
紫陽花のつぼみに梅雨を感じる季節になりましたが、日常の生活に戻れず、気が抜けているこの頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
コロナウィルスの感染でこんなにまで影響が出て、私たちの生活が変化するとは想像だにできませんでした。この騒動が終息しても、恐らく以前とまったく同じようには戻らないと思われます。ウィルスとは、細菌よりも小さな微生物と言われております。そのような小さな存在によって、人間の命、生活環境、社会の有様、経済等々が打撃を受け、人間の方が適用を強いられる現状に驚愕しております。どんなに技術、科学、医学等々が進歩してもコロナウィルスの出現で、あらゆる分野でストップしたり、対応の変化が生じるのであるとすれば、やはり人間は弱い存在なのだと思います。だからこそ、私たちを心配してくださっている全能の神を知り、頼ることが大切だと思います。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇 121篇
1,27,8節)
最近の話題はコロナウィルス一色という感がいたしますが、他の病気や事故、人間関係によるダメージ等々、私たちの生きる喜びや生きる活力を失わせる問題は多岐にわたり、ある時は不意にやって来ます。そのようなときに私たちに力を与え、生きる喜びと感謝を与えてくださるのが、神の愛の手紙 聖書です。
ウィルス感染の防御策に思う 2020年 4月
静かな、寂しいGWを迎えようとしている公園の藤の花など、例年になく遠くに感じるこの頃ですが、お元気でしょうか。
最近は中心街の様子も一転しており、車や人通りが少なく気が抜けております。学校は休校で職場もテレワークや時短勤務、休業で勉強や仕事のやり方、会議の持ち方など多分野で変化しており、このままだと今後の生活・社会環境が激変するのではないかと思われる側面を見ているように感じています。お互いのコミュニケーションの姿がタブレット端末やパソコンの活用が増え、直に顔と顔を突き合せる場面がさらに減少すると思います。そのことも寂しく感じましたが、目に見えない創造主なる神、イエス様との交わり、コミュニケーションはどうだろうかと自問自答しておりました。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの目で見たもの、よく見て、私たちの手で触れたもの、つまり、いのちのことばについてーそのいのちが現れました。父のもとにおられたが私たちに現わされた、その永遠のいのちを私たちは見て、あなたがたに証をし、告げたのです。」(Ⅰヨハネの手紙 1章 1,2節)
私たち人間の最大の特徴はことばによる伝達、コミュニケーションであり、文書による表現、記録ではないでしょうか。今後の社会や生活の姿が一変しようとも、ことばによる、会話による営みは崩れないものと思います。そして、目に見えない神との交わりもことばにより成立していると思います。それが聖書であり、聖書こそイエスのことばそのものです。
春に咲く花々たちに思う 2020年 3月
桜満開のこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
毎日毎日世界のコロナウィルスの感染者や死者のニュースに、楽しさや心のウキウキする思いが奪われてしまうように感じているのは私だけではないように思います。賑やかな通りが静まり返り、子供たちの姿が見られない学校の周辺です。地震や水害などの自然災害と違った、ウィルスという脅威が世界を揺るがせ、世界の祭典オリンピックでさえ延期をするという状況におかれているのです。そのような中、桜の花や菜の花、ラッパ水仙、フリージアなどなどの花たちに出会う時、心は和、落ち着きます。今、神は私たちに何を問いかけ、語り掛けているのでしょうか。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織もしないのです。しかし、わたしはあなた方に言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花のひとつほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」(ルカの福音書
12章 27,28節)
しかし、どんなに綺麗な花も何時かは枯れてしまうのです。
「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
どうぞ、人類の歴史上、最古につづられ、とこしえに変わることのない聖書のことばに心の耳を傾けてください。私たちの人生にとって最も大切なことが記されております。創造主なる神は私たち一人一人を美しく装ってくださるのです。
イベントなど催しの中止に思う 2020年 2月
春一番の宣言にもう春ですかというこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
最近はコロナウィルスの感染で、旅行者は激減しているし、各地のイベントは中止になり、多くの予定していたセミナーも中止という報告に、「そうですよね。」といった思いになります。イベントが中止されなくても参加者がまばらだという傾向も変わりがなく、一生懸命で準備されていた方々が気の毒に感じます。東京マラソンも一般の方の参加ができなくなり、参加費も戻らないようになりました。
ところで私たち人類が最初に禁じられ、閉ざされた道があるのです。それは天へのいのちの道なのです。最初の人アダムとエバが神のことばに従わなかったから、エデンの園から追放され、いのちの道が行けなくなったのです。しかし、今から2000年ほど前、神の特別な手段、方法によってその道は回復されました。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そしてそこから入って行く者は多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書 7章 13,14節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(神)のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書 14章 6節)
私たちは、神のことばに従わないという罪を犯したがゆえに、いのちの道を歩むことができなくなったのです。しかし、神は私たちを愛しているが故に、その罪を赦し、救い、いのちの道を回復してくださいました。その手段がイエスを身代わりに十字架にかけて罪の病を癒し、天へ通じる道、門を開いたのです。
新型肺炎ウィルスの感染に思う 2020年 1月
暖冬で雪が降らない新年明けですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
中国では新年といえば、1月末からの春節という時期です。この時期に中国武漢で新型肺炎のコロナウィルスが発生し死亡者が出て、感染者も1週間足らずで増加し今2000人を超え、海外にも波及しております。春節の中国ではのべ30億人の大移動の時期ですし、各国に旅行する方もいて、各国の感染の対策は尋常ではありません。マスクも完売して不足しているようです。そのウィルスの発生源は、武漢の市場で売られていた小動物、爬虫類ではないかと言われていますが、まだ断定されてはいないようです。世には解明されていない死に至る恐るべきウィルスが存在するということですね。このような事態に遭遇する時にいつも思うことは、罪というウィルスが人間に死をもたらしたという聖書のことばです。
聖書のことばをご紹介したいと思います。
「そういうわけでちょうどひとりの人(最初の人アダム)によって罪が世界にはいり罪によって死がはいりこうして死が全人類にひろがった…。」(ローマ人への手紙 5章 12節)
さまざまの病気やウィルスには、治療法や薬がありますが、罪という病には良薬はないのです。しかし、神は特効薬というか罪が癒される、解放される手段を与えてくださいました。それが信仰という道、イエスの身代わりの死を知り、信じるということ「一つの義の行為(イエスの十字架の贖い)によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」人間は、死が何であるかを解明できていないのです。いのちの素晴らしさもです。だから聖書のことばに驚かされます。聖書をお読みいただき、死から解放されて下さい。