2021年が終ろうとする時に思う 2021年12月
コロナ旋風で翻弄された年も終わろうとしていますが、皆様お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
2021年も終わりに近づきました。私たちの人生には様々な終わりがあり経験をしますが、何といっても人生の終わり死の別れは寂しいものです。今年も皆様から喪中のはがきを頂戴し、中には親しくさせて頂いた方もおられ、思い出に胸が熱くなることもあります。「終わる」ということばは、寂しいイメージがすぐにわきますが、学生時代が終わり社会人となる、また独身時代が終わり、家庭を持ち家族が増える時代が始まる。というように「終わる」といのは決して寂しいだけではなく、新しい時代、事に向かっていく前向きな有様でもあるのです。「死」という終わりは、決して悲しいことだけでなく、新しい世界への希望ある門出でもあるのです。イエスの最後は十字架という壮絶なものでしたが、イエスは「完了した。」と言って息を引き取ったのです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネの福音書 19章 30節)
「終わる」という文字が示しているのは、織物などをした時の最後の結び目を現わしていると言われております。すなわちそれは完成をしたという満足、喜びの表現なのです。だからイエス・キリストは十字架で処刑される前に「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と勝利の宣言をされたのです。それが、イエスが私たちに与えたい「死」という人生の完成、勝利なのです。
皆様にとって、2022年がよき年でありますように!
夫婦で薬を捜している姿に思う 2021年11月
寒さを感じる日々ですが、お変わりなく皆様お元気でお過ごしでしょうか。
最近のことですが、私は血圧を安定させるために毎朝薬を一錠飲んでおります。ある日、口にぽいと入れた薬がポロリとテーブルの下に落ちてしまい、懸命に捜しましたが見つからず、後は家内に任せて家を出たところ、向かいの椅子の下まで転がっていたのが見つかりました。それから数日後家内がしきりに何かを捜していました。聞くとまだ錠剤が残っていた薬の袋が行方不明で一生懸命に捜しているとのこと、夫婦して捜している姿に歳を感じると同時に、私たちは、何時も人生の中で大切なものを捜しているのではないかと考えさせられました。私は学生のころ人生の目標、進むべき道が分からず捜し求めていた時、聖書と出会ったのです。そしてそれはまた、私という一人の迷える子羊を捜しておられるイエスとの出会いでもあったのです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来た。」
(ルカの福音書 19章 10節)
私たちは、創造主なる神から離れてしまい、自分の命の尊さ、どうして生まれたのか?人生の目的や目標を見失っており、素晴らしい天へ行く道をも見失ってしまっているのです。そのような迷える私たちに、人生の喜び、生きる本当の価値、天の御国への救いを教え、与えるためにイエス・キリストが来られたのです。私たちを捜し出してくださったのです。それがクリスマスの本当の意味の一つなのです。聖書が宣べ伝えられているのは、今日も主イエスは迷える子羊を救うために捜しておられるからです。
バンジージャンプの事故に思う 2021年10月
マフラーの姿を見かけるようになりましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
数か月前のニュースですが、南米コロンビアのバンジージャンプの施設で、楽しみに来ていたカップルの男性の方が先にジャンプする準備を終え、女性の方は簡単な装備で本格的な装着がまだ終わっていないのに、係員の跳躍の合図を自分への掛け声と思い込んで飛び出してしまいました。メインのロープを着けていませんでしたから、弁護士の25歳の女性は落下し死亡してしまいました。聞き違いという勘違いと、命綱をしていなかったことで命を失ってしまった悲しい事故です。実は私たちも、本当の声を聴いていないことと私たちの大切な命にかかわるロープをしていないことにより、永遠の滅びへと落ちてしまうという悲しい結末が待っているという聖書のことばがかさなりました。それは創造主なる神の愛の招き、導きの声を聴いていないということ、そして天に引き上げてくれる大切な愛のきずなの綱を結びつけていないということです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「人がわたし(イエス)にとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたし(イエス)を離れては、あなたがたは何もすることが出来ないからです。」(ヨハネの福音書 14章 5節)
父なる神と救い主イエス・キリストは、自然を通して、または聖書を通して、私たちに語り掛けておられます。その愛の語り掛け、最も大切な私たちの歩むべき合図の声を聞き違えるととんでもない結果が待ち受けているのです。イエス・キリストの大切な愛のロープから切り離されていたら、実を結ぶことができない滅びの人生しかないのです。イエスと繋がっていることが大切です。聖書を通して、神に愛されているご自分を知り、繋がって下さい。
総裁選、衆院選にいつも思う 2021年9月
朝夕は気温も下がり日暮れも早くなりましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
最近選挙と言っても何か期待や感動が薄れておりますが、この言葉に必ず反応することがあります。それは選びの大切さです。私たちは誰でも物心がついた時から選ぶということをしております。確かに生まれた環境などは選べませんが、どんなおもちゃが好きで選ぶか、着る洋服などもいつの間にかしっかりと選んで意思表示をしているのです。見る映画や番組を選ぶこと、付き合う友達を選ぶことなどもそうだし、学校、仕事の内容等々、また身近だと今日何を食べるかなど毎日の一つ一つが選びの連続ですね。そのように創造主なる神は、私たちに大切な選びを任せておられるのです。そしてその大切なものは、目に見えない生きる目的とか、真実な愛とか、神が存在するかしないかといった天の御国の永遠のいのちにかかわる大事な選びなのです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書 7章 13,
14節)イエスは言われた。「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父(天国)のもとにに来ることがありません。」(ヨハネ 14章 6節)
父なる神と救い主イエス・キリストのあなたに対する愛を知るといのちの狭い門に至る道を歩むことを選ばれると確信しております。聖書を通して、神に愛されているご自分を知って下さい。
オリンピックの聖火に思う 2021年8月
コロナの感染者増加に歯止めが掛かりませんが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
東京オリンピックは24日からパラリンピックが開催され、また熱い競技に感動が生まれています。オリンピックといえば、ギリシャをスタートして世界、開催国へ繋げられる聖火のリレーも多くの方、特に参加した方に感動と思い出に残る幸いなイベントだと思います。聖火をもって走る姿にイエスが言った「あなたがたは、世の光です。」ということばをいつも思い浮かべます。「わたしは世の光です。」と言われたイエスは、その救いの光を私たちに渡して、全世界を光の輪でつなぎたいと願っておられます。すでに救いの光を持っている私たちが力不足だと思いますが、一人一人の方が主イエスから直接永遠に消えることのない救いの光を受け取ることができます。
聖書のことばを紹介したいと思います。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちを光を持つのです。」(ヨハネの福音書 8章 12節)
聖火がスポーツの祭典オリンピックで世界を繋ぐ平和の光を象徴しているとすれば、イエスが言う「いのちの光」は私たち一人一人が走るべき人生という競技、そして、それは多くの方々とつながっている愛という光がリレーされていく尊い灯でないかと思います。この世の中で、私たちを照らす最高の光は、太陽ですが、その太陽を創造された神の独り子イエスの光は、それよりも遥かに優れた、光の源である存在です。この光を持つことのできる生き方、人生がここ聖書に記されております。
オリンピックの開催に思う 2021年7月
暑い日々が続きますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
一年遅れの東京オリンピックが開催されました。コロナ禍の中で中止という声も上がりましたが、無観客での開催という決断となり各国の選手や関係者が来日し23日に開会式が持たれ、競技が始まりました。世界の祭典ですから多額の金額が動いて、お金のための祭典ではないかと言われておりますが、アスリートの方々にとってはそれぞれ個人の記録や強さを確認できる最高の競技大会であり、各国も全力で戦っております。しかしその大義は「平和の祭典」であり、互いに尊重しあう、健闘を称えあう素晴らしい大会なのです。その姿をみつつ「おもてなし」を強調して、勝ち取った名にふさわしい祭典であると幸いです。平和それは人類共通の希望であり、創造主なる神も私たちに望んでいる生き方なのです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ人への手紙 5章 1節)
「キリストこそ私たちの平和であり、・・・十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬りさられました。」(エペソの手紙 2章 14, 16節)
私たちの願いは、「平和」そのものであると思います。そして神が、最も願っているのは私たちとの平和な関係なのです。なぜなら、人間は神を避け、神を認めず、神から遠く離れているのです。そして、人々はまことの神のことばに従わず、神に敵対する存在となってしまったのです。イエスは、そのような私たちに神の愛を伝え、天で待っておられる神との和解・平和を伝えて下さったのです。
6月第3日曜の父の日に思う 2021年6月
梅雨は明けたのかなと思う気候ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
さて、5月の2週目が母の日で6月は3週目が父の日です。ともにアメリカからスタートしていますが、1909年頃に南北戦争の中、父親不在で6人の子を守り奮闘していた母親が、戦後父親が帰還して間もなく過労で亡くなってしまいました。その後は父親が6人の子供たちを一人で育ててくれました。そこですでに母の日はあったのですが、父親にも感謝したいとその子供が教会の牧師や協会に相談をして「父の日」が制定されたようです。当初は白いバラをプレゼントしたそうですが、今はネクタイ等々様々です。母の日ほど盛り上がってはおりませんが、感謝をするということはとても大切なことだと思います。聖書でも家族は大切な存在でありますが、マリアや兄弟たちがイエスを心配して訪ねて来たとき、イエスは次のように言われました。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「見なさい。ここにわたしの母、私の兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行うひとが、わたし兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイの福音書 12章 49,50節)
イエス・キリストは、周りにいる方々を「わたしの母、兄弟、姉妹」と呼んでいますが、父とはないのです。イエスにとっては、天地を創造された神が父そのものであると言っており、「わたしの天の父」と伝えているのです。処女マリアを通して誕生したイエスは、折に触れて「天にいる神を父なる神」と呼び。紹介しているのです。そして、十字架で処刑される直前の祈りで「父よ時が来ました。」と言われただけでなく、「わたしと父が一つであるように、彼ら(信者)も一つとなるように!」と記されております。私たちに「父なる神に願いなさい。」と言われているのです。
大相撲の優勝決定戦に思う 2021年5月
早い梅雨入りとなりましたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
大相撲夏場所は5月23日に優勝決定戦となり、またまたモンゴルの力士が優勝杯を持っていきました。相撲ほど勝敗が早く決まるスポーツはないと思いますが、この日はラグビーの決勝戦もありました。勝つか負けるかは、白か黒大きな差があります。イスラエルとハマスの戦闘もあり爆弾が飛び交いました。またミャンマーでは国軍がクーデターを起こし、民間人との間で戦いが続いております。また、今や世界はコロナウィルスと連日壮絶な戦いをしており、如何に感染を未然に防ぐかが大きな問題とり、経済や人間関係に暗雲が立ちこめております。コロナに対する勝利宣言はどのような形で行われるのでしょうか。等々私たちの社会の営みは種々多様な戦いの連続であり、勝つか負けるかという狭間で生きているのではないでしょうか。そしてある時は、自分自身との戦を強いられているのではないかと思いますが、無駄な戦いをしていることが多くあるように感じられております。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネの福音書 16章 33節)
イエス・キリストは、私たちには世との戦いがあると言っているのです。世とは何なのでしょうか。創造主なる神を認めていない世界。人間は自分たちに都合の良い神を考え造り出したのです。そしてお金、富が優先する世の中、政治の世界や犯罪さえお金で解決してしまう世の中です。イエスは正しく罪がなかったけれども十字架で処刑されたのです。しかし、イエスの愛はそのすべてに勝利したのです。人生の、いのちの真の勝利者とは誰でしょうか。永遠の命の鍵を持つ者、それが勝利者の証なのかも知れません。
新たな出会いの時―4月に思う 2021年4月
ずいぶん暖かくなりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
4月はいろいろな出会いがあり、期待や嬉しさもあります。私たちにも様々な出会いがありますが、人生最初の出会い母親、お母さんとの出会いです。皆様もいろんな出会いを経験しておられると思いますが、忘れられない出会いはございましたか?ある出会いは人生に大きな影響を与えますが、王貞治さんとコーチ荒川さんとの出会いは正にその一つではないかと思います。王さんが中学2年のとき少年野球で左利きで右バッターであった当時たまたま通りがかりで見ていた荒川さんが王さんに左利きだから左のバッターボックスで打つことを進め、特大の2塁打を打ち、その後巨人軍に入団した王選手に一本足打法を助言し、ともに完成させたのが荒川コーチだったのです。この二人の出会いが、世界のホームラン王を育てたのです。私の運命的な出会いは聖書と全知全能の神と救い主イエスとの出会いでした。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネの手紙 4章 10節)
この世界の様々な出来事や子供の飢餓、戦争の傷跡等を見て世界には神など存在しないと考えるようになりました。依然として世界には、人類を滅ぼすことができる核兵器の存在や化学兵器の実験等を見るとき愛なる神の存在が見えなくなっておりましたが、聖書を読み進めるとき、全世界を創造し、私たちを愛しておられる神の実在を感じ、イエス・キリストの乙女マリアによる誕生と罪なき御方の十字架の処刑、よみがえりを知った時が神の愛を知り、神と出会った感動的な18歳の3月でした。
今年も満開に咲く桜に思う 2021年3月
肌寒さが残りますが、満開の桜に春を感じたこの頃です。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
博多区にある職場のそばに公園があって、この季節になると桜が見事に咲き、お昼には近所の方々がお弁当片手に桜見物をして楽しんでおられます。つい最近事務所のオーナーが来られて、お客様と面談していたのですが、福原さん写真を撮ってと面談を遮っての依頼に、皆唖然としておりました。来年生きているか分からないので、満開の桜のもとで写真を撮りたいのです。あなたも撮ってあげるからと言われると返す言葉がありませんでした。84歳になられるオーナーです。桜の花のように潔く散って人生を閉じるような方ではないかと感じる人生を歩んでおられるかな。最近聖書にほんの少し興味をもって下さったので、ゆっくりお話をしたいと願っております。花を愛するやさしい心に神の愛のことばが伝われば嬉しいです。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』」(Ⅰペテロの手紙 1章 23~25節)
桜の花のように私たちのそばに咲く草や木の花は、晩秋から冬にかけて全く影も形もない状態になります。しかし冬には木と枝だけの桜の木も3月初旬からつぼみが出て、何もない状態から一気に満開の花が咲きほこるのです。その満開の桜は見事に散るのです。私たちの人生も散るということで終わるのではなく、満開の状態で終えて天に行くというのが、神のメッセージなのです。だから、変わることのない永遠に通ずることばであると記されているのです。
五輪の大会会長の交代に思う 2021年2月
段々と春めいた花々も顔をだして参りましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
東京オリンピック・パラリンピックの大会組織会長が女性蔑視と思われる発言で批判を受け、辞任交代というお粗末な事態になり、近づいて参りました開催にコロナとの関係もあって、暗雲がたちこめております。さて今回も問題になった男女平等ということをどのように受けとめておられますでしょうか。創造の初めのエデンの園での出来事は助け手の妻であるエバがサタンのことばに惑わされて禁断の木の実を先に食べたことで女性の立場が微妙に厳しくなったように思います。しかし、それは男女の差別を指しているのではなく、役割の違いがより鮮明になったものだと思います。例えば「女は苦しんで子を産まなければならない。・・・男は、あなたを支配することになる。」また「男は、顔に汗を流して糧を得、ついに、土に帰る。」とあります。
聖書のことばを紹介したいと思います。
「主にあっては、女は男を離れてあるものではありません。女が男をもとにして造られたように、同様に男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。」(Ⅰコリントの手紙 11章 11,12節)
天地創造の時の聖書のことばを紹介致しましたが、男女それぞれの苦しみがあることが示され、男女の存在では「それぞれが離れてあるものではなく」「同様に」という表現の中に同じ存在としての立場が明確にされ、結婚は「ふたりは一体となる」あります。社会での、家庭でのあり方、生き方の中でお互いに尊重し合い・助け合う存在として尊い命が与えられていることを覚えます。
天気予報の細やかさに思う 2021年1月
気温の変化が激しいこの頃ですが、皆様お元気でお過ごしでしょうか。
最近の天気予報は、ひと昔と違い地区ごと―博多区や南区といった具合い―に告知の範囲が細かく、かつ一時間おきに天気の様子や気温の変化などを伝えてくれます。その予報を私たちもかなり参考にして行動しているように思いますし、その予報が大きく外れることも少なくなったように思います。そこで思うのですが、それと同じように私たちの人生も明日何が起こるか、将来どのようになるのかといった予報が的確になされると大変助かるのではないかと思います。創造主なる神は全てのことが分かっておられると思いますが、私たちに明日、明後日には、どのようなことに遭遇するか、何が起こるかといったことは明らかにされていないのです。それも神の知恵だと思いますが、実は漁師さんは昔から空や風などの様子から天候を見極める力を持っておられたと聞いたことがあります。
聖書のことばを紹介したいと思います。
イエスは言われた。「あなたがたは西に雲がおこるのを見るとすぐに『にわか雨がくるぞ。』と言い、事実その通りになります。また、南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実その通りになります。あなたがたは、地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることが出来ないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」(ルカの福音書
12章 54~57節)
神は私たち一人一人に種々の能力を与えて下さっており、心の目で明日を見ること、自分を見ること、何が最も大切なものかを見て、知ることができるようにしてくださっていると思います。それは聖書のことばを通して確かなものとされます。